観音寺は、正式には蓮葉山妙智院観音寺といい、慶長十六年(1611)に江戸神田北寺町に、長福寺として尊雄和尚によって建てられました。関ケ原の戦いに勝利した徳川家康が、征夷大将軍となって江戸幕府を開いた頃のことです。場所は現在の皇居のすぐ近く、千代田区神田錦町のあたりといわれています。
江戸が日本の首府として動き始めると、江戸の町は急速に発展し、江戸城を中心とした区画整理がおこなわれ、その中にあったお寺や神社、町家はつぎつぎと移転を命ぜられました。
慶安元年(1648)、観音寺(長福寺)も境内地が御用地となり、谷中清水坂に移転し、延宝八年(1680)に再び現在地に移転しています。※1
文久板(1862)の小川町絵図をみますと、一ツ橋御門外、神田橋御門外との間の北方の道に「錦小路」とあります。その近くは武家屋敷ばかりで町屋はなく、御用地となったのちに武家屋敷地となりました。ちなみに錦小路、錦町等の名は、かつて一色家の屋敷が二つあったことから、二色小路、二色町と呼んだことにはじまったといわれます。
谷中清水坂とは東叡山寛永寺清水門坂のことで、『延宝図』(1679)の護国院の西のところに「しみず丁ノあと」と記載され、『寛文図』(1671)では空き地になっています。門の脇に清水が湧出していたことから、清水門、清水町、清水坂の名が生まれたといわれ、現在の台東区池之端四丁目あたりになります。
※1
「― 慶長年中、神田北寺町に寺地を拝領、のち谷中清水坂に、延宝八年替地移転す」
(『東都歳事記』)
「― 境内拝領地、権現(家康)様御代神田北寺町拝領仕候 ― 大猷院(家光)様御代御用地ニ相成被召上代地谷中清水坂 ― 厳有院(家綱)様御代御用地ニ相成候而延宝八庚申年只今之場所代地拝領仕候 ―」
(『文政寺社書上』)
観音寺(長福寺)が現在地に移転した頃、観音寺周辺は次々と寺院が引き移り、元禄年中(1688~1703)も中頃になると、谷中の地は江戸府内有数の寺町となり、寺町特有の静けさと賑わいを見せはじめます。この元禄の頃は、江戸幕府の治政も比較的安定した時代で、庶民のあいだに物見遊山をかねた寺社詣が盛んになります。弘法大師霊場巡拝や観音霊場巡拝が盛んになったのもこの頃のことです。 観音寺(長福寺)の「― 表間口三十五間余、奥行三十五間余、総評数、千三百二十一坪七合 ―』の境内地には、大師堂、護摩堂、観音堂、稲荷社がつぎつぎと建てられ、人びとの厚い信仰が当寺へ寄せられたことをものがたっています。
享保元年(1716)、紀州の徳川吉宗が第八代の将軍職を継承すると、長子の長福丸(家重)が世子となります。次の将軍位を継ぐ世子の名と寺号が同じになってしまったわけです。これらのことを配慮した朝海和尚は寺号を観音寺と改めました。江戸時代、将軍の子や側室の名と同名となった寺院は、「公儀に恐れ多い」といい、すべて寺号を改称しています。
観音寺の『寺社書上』は、文政九年(1826)十三世教阿和尚によって書き上げられていますが、これによると、朝海和尚を中興開基と称し、朝海和尚の代に真言宗江戸四箇寺であった本所弥勒寺(墨田区)と本末関係を結んだと記しています。※2
諸堂宇の建立をはじめ、寺号の改称、新しい本末関係の確立等が、すべて朝海和尚によって行われたわけで、観音寺史のなかでも最も特筆される歴代僧といえましょう。
朝海和尚は、享保元年十月二十二日、すべての後事を朝山和尚(文良)に託して遷化しました。吉宗が将軍位についてから六か月後のことで、寺号の改称、新しい本末関係の確立は、すべてこの六か月間で遂行されたことになります。
※2
「― 中興開基 当寺第五世朝快(海)住職中本所弥勒寺之末寺ニ相成申候 ―」
(『文政寺社書上』)
明和九年(1772)、目黒行人坂の大円寺から出火した火災は、日本橋、神田、千住まで燃えひろがり、現代では考えられないほどの広範囲にわたる大火災となり、谷中の諸寺院も大半が焼けてしまいました。※3
観音寺の諸堂宇も焼けてしまい、歴代住職によって書き記された貴重な文書も、そのほとんどがこの大火によって焼失しています。しかしながら、当時の住職たちがただちに堂宇を再建し、時代も文化・文政(1804~1829)の頃になると江戸文化はいよいよ花開き、観音寺の檀家区域もますます拡がり、観音堂に安置された如意輪観音の信者たちが寺運隆昌への一助を担っていたと伝えられています。
※3
「二月二十九日、乾より西南の風烈しく、土烟天を覆い日光朦朧たり ― 午の刻、
目黒行人坂大円寺より出火して ― この火事長さ六里幅一里 ― 大小名藩邸寺院
神社町屋の類夥しく、焼死怪我人其の数を知らず ―」
(『武江年表』)
慶応四年(1868)、十五代将軍徳川慶喜の大政奉還によって、二百六十余年にわたった江戸幕府が崩壊し、明治新政府が樹立されると、神仏分離令が公布され、廃仏毀釈運動が起こります。観音寺も境内地をすべて官有地とされ、宗教活動にまで支障をきたす状態になりました。その様な時代背景の下で、より一層の寺運繁栄に邁進したのが十五世賢恭和尚です。
大正十二年(1923)、関東大震災が起こり、観音寺の本堂も倒壊こそまぬがれましたが、ひどく損傷してしまいました。そこで先代住職である智廣和尚が本堂の建てかえを発願し、昭和十八年(1943)、第二次世界大戦中という大変きびしい世相のもと、現本堂を完成させることができました。そこには観音寺檀信徒の大変なご支援ご助力がありました。また、現本堂完成にともない、当時は境内に安置されていた江戸時代作である唐銅()製の大日如来像と阿弥陀如来像を本堂内に遷座頂き、以来、観音寺のご本尊とさせて頂いております。戦時下の日本では鉄をはじめとした金属が不足し、一般家庭の鍋はもちろん、寺院の鐘も供出の対象となっており、その様な時代背景から、改めてご本尊として本堂内にお迎え入れたとされています。
このように、観音寺は創建以来四百余年、激動する時の流れの中にあって、その法灯を一度も絶やすことなくともしつづけ、由緒ある古刹として今日に至っています。
観音寺のご本尊は、大日如来と阿弥陀如来です。江戸時代に作られた尊像で、像高三尺八寸と三尺四寸の唐銅(胡銅)製の座像です。かつては濡れ仏として境内に安置されておりましたが、現本堂完成にともない、ご本尊として本堂内に遷座いただきました。
それまでの観音寺のご本尊は、如意輪観音菩薩と不空羂索観音菩薩です。こちらも江戸時代作の木製座像の尊像で、蓮台から光背も含めた像高は三尺となります。この観音菩薩像は、当初は明和の大火後に建てられた観音堂に安置されておりましたが、その後ご本尊として旧本堂に安置されておりました。現在では本堂内位牌堂に安置されています。
また、観音寺創建当時はご本尊として五智如来像(金剛界五仏)が安置されていました。観音寺を開創した尊雄和尚が師子相承していたものです。五智如来とは大日如来を中心に阿閦如来(東)、宝生如来(南)、阿弥陀如来(西)、不空成就如来(北)の五仏のことで、大日如来が法界体性智を、以下順に大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智を具現するということから五智如来と言い、観音寺に安置されていた五智如来像は「木座像 丈一尺四寸斗」(『文政寺社書上』)の像でした。有名な五智如来像としては、京都の東寺(教王護国寺)講堂に安置されているものがあります。
この五智如来像は、火事によってうしなわれ、残念ながら現在は伝承されておりません。
真言宗は、平安時代の初めに中国に渡り、真言密教のすべての教えを恵果阿闍梨から授かった、弘法大師空海(774~835)によって開かれました。弘法大師は、すべての人がそのままの姿で少しも変わることなく仏さまになれるという「即身成仏」の教えと、すべてのものに価値を認め、すべてのものに真実を見いだし、無駄なものは一つもなく、それらはすべて共通の原点である大日如来によって結ばれているという「曼荼羅」の教えを説かれました。
真言宗は高野山を中心に教えを広めました。しかし、様々な理由は有りますが、高野山は平安時代の終わり頃に一時衰退してしまいました。そのような状況を打破すべく、高野山の高僧であった興教大師覚鑁(1095~1144)が、弘法大師の教えに新しいエネルギーを吹き込み、高野山を、そして真言密教を復興されました。その後、興教大師は紀州根来寺を開き、「教学の山」と呼ばれるほど大変栄えましたが、戦国時代に豊臣秀吉による焼き討ちにあい、壊滅状態となってしまいました。その時に専誉僧正と玄宥僧正という二人の優れた学僧がおられ、専誉僧正は奈良の長谷寺で豊山派を興し、玄宥僧正は京都の智積院で智山派を興しました。
江戸時代、長谷寺は豊山派の総本山として、「教学の山」と呼ばれた根来の流れを汲み「学山豊山」として栄え、現在も、四季折々の花が山を彩る「花のみ寺」として、また、西国三十三観音の八番札所に数えられる、長谷観音(十一面観世音菩薩)さまの霊場として多くの人がお参りに見えています。
われらいま、生をこの國土にうけ、孜々として日夜生業を営むといえども、悲しいかな、
煩悩の雲深くして、愛欲の廣海に漂い、
名利の大山に惑いて、いまだ生死の
一大事を覺らず、徒らに我見・我慢の
妄情に囚われて、人生の苦悩を脱るること
能わず。
ここに
法身大日如來ましまして、深くわれらの苦悩を
憐みたまい、親しく眞言祕密の妙法を説きたもう。
そもそも眞言祕密の妙法と
申すは、大日如來自内證の法門にして、卽身成佛と
密嚴國土の實現とをもって、その究竟の理想となす。 されば
有漏雑染のわれらが心中に、白淨の
菩提心を本來具足せることを悟り、
心・佛・衆生、三平等の勸に、住して、凡聖不二の
深旨を信ずるをもって安心の宗要とす。
かく信新決定せるもの、大日如來と、大日如來より
化現したまえる諸佛・諸菩薩、
明王・諸天、乃至兩部曼荼羅を本尊とし、
如來の加持力を蒙って、三密の
妙行を修するを修行の肝要とす。
宗租弘法大師この祕敎をわが國に傳えて、
自から卽身成佛を現證したまい、尊き敎えを
垂れたもう。
われらいま幸いに大師の門に入りて、
最勝の妙法に値遇したてまつる。 しかればすなわち、
大師の敎誡を仰いで、わが身の罪業を
心より懺悔し、菩提心をおこして、信心を
決定し、外には十善、
四攝の菩薩道をふみ行ない、内には
如來加持の本誓を仰信して
三密の妙行を勵むべきなり。
思うに、世法・佛法の二諦は、 その
基づくところ二つなきが故に、われら自から心身を淸淨にして、
誠を日常の業務に注がん。
およそ希望の光明は、精進努力によって輝き、
一家の興隆は、勤勉力行によって達せらる。 その
職業に種種ありといえども、もとより貴賤あることなし。
總べての業務は、悉くみな佛作佛業なり。
身修まり、家榮え、國興りて和風世に
普く、社會安穩なるを密嚴國土と
名づく。 われらここに、
二諦相依の深義を確信し、相ともに、
向上の一路をたどり、堅く宗租の遺訓を
守りて、あえて違背することなく、
朝夕報恩の誠を捧げたてまつらん。
南無大師遍照金剛
私たちは、今この日本国に生を受け、日夜一心に生業に励んでいます。しかし一度自己のありさまを省みると、悲しいことには、貪・瞋・痴の煩悩の雲に深く覆われ、あたかも大海に浮き沈みするごとく自己への愛着と我欲にとらわれ、名誉と利得を追い求めて大山に踏み入り迷うばかりです。人生の一大事である生と死の本義を覚らず、いたずらに我見と我慢といった妄情に動かされ、自ら作った業苦により、苦悩を脱することができずにいます。
そこで真言密教の教主である大日如来は、私たち凡夫の苦悩を深く憐み、真言秘密の妙法をお説きくださいました。
その真言秘密の妙法とは、法身大日如来自らが証得されたさとりの法門であり、この身このままに成仏するという即身成仏と、この世をそのまま秘密荘厳仏国世界として顕現することを究極の理想としています。この法身大日如来の大慈大悲の御誓願におすがりし、私たち有漏雑染の煩悩にまとわれているこの身中に、自心の本性である白浄の菩提心を本来具えていることを見出し、自心・仏心・衆生心が本来平等であるとの凡聖不二の深旨を堅く信ずることを、本宗の安心の宗要としています。
このように、凡聖不二の深旨を信じ、安心決定した者が、大日如来と大日如来から顕現される一切の諸仏・諸菩薩、明王・諸天、金剛・胎蔵両部曼荼羅の諸尊を本尊とします。そして、身・口・意の三密妙行を修習し、本尊の加持力を蒙って自身の活動すべてが三密であると信じ、つとめることが修行の肝要なのです。
宗祖弘法大師さまは、この甚深秘密の教えをわが日本国に伝えられ、自ら即身成仏を現証されて、広く私たちに真言秘密の法門を御教示くださいました。
私たちは幸いにも弘法大師さまの法門を受け、仏教の中でも最勝の教えである真言秘密の法門に会うことができています。だからこそ、お大師さまの教えを堅く信じ、わが身のありのままを深く省察して、煩悩・我欲の罪業を心から懺悔し、真言宗徒としての菩提心を発して他に惑わされることのない信心を決定しましょう。そして社会にあっては、殺生・盗み・邪婬・偽り・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見を自制する十善業道に励み、また大乗菩薩として行うべき六波羅蜜、四摂(布施・愛語・利行・同事)につとめましょう。心の中では大日如来の加持力におすがりして、如来の本誓を篤く信じ、三密妙行に励まなければなりません。
考えてみると、真言秘密の法門では、すべての存在を法身大日如来の法界、曼荼羅世界と見て、一見あい反する世俗の道理と出世間の法門も、その基づくところは本来同一体であるとみています。だからこそ、世間・出世問いずれにあっても、自らの心身を清浄潔白にして、自己に偽りのない至誠を貫き、日々のつとめに励むべきなのです。如来の加持力を蒙る凡仏平等の世界とは、自身の本性を活躍させることにあり、一家の安寧・発展は、如来の大悲に生かされている私たちが、いたずらに世間的名誉や地位にまどわされ、我執・我欲の奴隷となることなくお互いに他を尊重し、それぞれの本分が十分に発揚されるところにあるのです。私たちは、如来の法界に住んでいるのであって、その職業に種々あるといっても、本来職業に貴賎などあるはずもなく、それぞれがその本分・能力を発揮して、自身の行いを仏作・仏業であると信じつとめるならば、すべてのものの輝かしい発展があり、そこに如来加持の秘密荘厳国土が現れてくるのです。
私たちは、ここに如来加持世界、真俗二諦相依の深義を深く信じ、互いに自己と社会の発展に向かい、如来の大悲を仰ぎ、宗祖の遺訓を堅く守り、今日生かされている幸せを喜びあい、深く報恩の誠を捧げ、一層の信心に励み、安心決定につとめなければなりません。ここに、謹しんでこの甚深最勝の法門を伝え教え導いてくださいました、宗祖弘法大師の御宝号をお唱えいたします。
南無大師遍照金剛
合 掌
「安心」とは、普段何気なく使っている言葉で、普通「あんしん」と読んで、心配・不安のない、気持ちが安定した心の状態をいいます。しかし、この「安心」という言葉は、本来は仏教の用語で、「あんじん」と読み、「仏法によって揺るぎない、何ものにも侵されない心の安定を得ること、その境地」という意味です。ここから、さまざまな意味が派生して、「心を一点に集中させて、動揺しなくなる状態のこと」「心を安んずること」という意味でも使われるようになりました。また、浄土系の宗派では、「阿弥陀如来の救いを信じて極楽への往生を願う心」をも意味しています。さらには、「宗意安心」といって、各宗派の最も根本的な教えを指す言葉として用いられています。
さて「安心」とは「不安」(対象のはっきりしない、心の頼りない状態)が解消することであるわけですが、私たちが日常用いる「不安」には、目前の理由や原因があり、それが解消されれば比較的簡単にその不安は払拭されます。たとえば、病気になったときの不安、お金が無いときの不安です。こういった不安が解消されると、私たちは安心する。病気が治ると安心する。お金が出来ると安心する。これが「あんしん」です。それに対し、「あんじん」の対象とする「不安」、たとえば「死ぬことへの不安」といったものは、目前の理由や原因によって起こるものではなく、もっと根源的であり、構造的な理由によるもので、簡単に払拭されるようなものではありません。
仏教の用語で、この「不安」の概念に対応する言葉に「渇愛」があります。「渇愛」とは、あらゆる煩悩の根底にある根源的な欲望、不満足性のことです。渇愛があるから執着があり、執着があるから輪廻の存在があり、輪廻の存在があるからこの世に生まれるのであり、生まれるから、老・病・死などに代表される人間のさまざまな苦惱が起こるのだと、お釈迦様は説かれています。(十二縁起説)渇愛を滅した状態とは、いわば悟りの境地のことですから、なかなか到達できるものではありません。では私たちはどうしたら「あんじん」を得ることができるのでしょうか。
真言宗の宗意安心は、弘法大師のご教示をはじめ、列祖・先徳により真言宗の根本精神と宗教体験からさまざまに提唱されてきました。特に江戸時代末期から明治期にかけて、多くの先徳によって宗意安心が編纂されてきましたが、真言密教の多面的な宗教性がそのまま反映され、多くの安心観を生み、一定していませんでした。そこで真言宗豊山派では、昭和三十八年に豊山宗学研修所において、『真言安心章』一巻を編纂し、檀信徒の皆さんの安心を提唱し、常用されています。
そこでは、この身このままに成仏するという即身成仏と、この世をそのまま秘密荘厳仏国世界として顕現することを究極の理想としています。そしてこの法身大日如来の大慈大悲の御誓願におすがりし、私たち有漏雑染の煩悩にまとわれているこの心中に、自心の本性である白浄の菩提心を本来具えていることを見出し、心・仏・衆生が本来平等であるとの凡聖不二の深旨を堅く信ずることが、本宗の安心の宗要なのだとしています。